建国奉仕
昭和13年7月11日橿原神宮外苑拡張工事建国奉仕隊に対し、救護所を設置し、各郡医師会会員が巡回することになった。宇智郡医師会でも、昭和13年7月17日午後1時より、五條町会議事堂にて臨時総会を開いた。郡市医師会長会決議事項の中で、最重要なる建国奉仕隊の救護奉仕に関して、当医師会にも救護班の派遣要請がきており、救護班の編成および順序を決めておきたいとの提議があり早速協議された。結果、7月25日より第1回の奉仕に従い、これ以後、会員が2人1組となって奉仕出張が実施された。救護班用鞄は岡安商店より買受け、診断用具、薬品類は仁天堂にて調整され、内容全部にて21円30銭であった。
この橿原神宮拡張工事とは、「紀元二千六百年奉祝記念事業」の一環として国が推し進めた事業である。
宇太郎日記によれば、中谷宇太郎会員は昭和13年8月27日より昭和14年9月13日までのほぼ1年間に都合8回、ほぼ2ヶ月に1回救護班として、橿原神宮に出動している。医師は必ず2名1組で配置されており、看護婦同道のこともあり、また産婆が同行したとの記述も見られる。毎回弁当を用意し、午前8時前北宇智停車場発の汽車に乗って出かけている。救護所は橿原神宮八紘舎内に設置されており、勤務は9時頃からであったようだ。だだ、途中神宮参拝、境内散策の記事も見えることから、そんなに多忙な業務でもなかったようである。帰りは3時過ぎから4時前の近鉄電車に乗車している。
昭和14年11月26日奉仕事業の完成により建国奉仕隊救護所の閉鎖式が県医により行われたが、一年有半の間に救護人員は4500名に達したとのことである。
また、戦時体制のもと、防空演習の救護活動分担を命ぜられ。中部防空司令部に出動したとの記録も残されている。