「常会簿」

 

常会簿

 

昭和19年10月18日より昭和22年11月9日までの宇智郡支部常會の記録が、粗末な藁半紙(反古)を綴じたノート「常會簿」に残されている。この間、支部の常會あるいは臨時常會が、終戦迄に都合8回、終戦後の約2年余で29回開催されている。ほぼ毎月1回の割合で開催されたことになり、宇智郡支部の勤勉さを裏付けているが、医用薬剤や衛生材料の公正な配給の維持、前述したような戦争状態におけるさまざまな社会福祉活動への参加貢献を考えると当然の結果といえよう。

終戦までの常会簿は、戦争がさらに身近に迫って来たことを示している。すなわち、都市部からの集団疎開学童に対して嘱託医を選定したこと、防空救護体制を整え、救護所担当として前防玄良、澤井政雄会員を選んだこと、応召会員の送別会を行ったこと、家族慰問のこと、最後には勤労報国隊や義勇隊結成の話まで出て、いよいよ本土決戦を想定した戦時対策が常会の議事にも登場している。